米と日本人

稲を育ててお米をたいて夕餉は楽しいご飯の時間。大飯喰らいのたらふく飯(まんま)、何と言ってもご馳走は銀シャリ。英語のライスでは言い尽くせない関わりを日本人は脈々と受け継いできました。

伝説か史実かの論議は別にしてこの国の国史である古事記には、天がこの世に瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を遣わしてこの世に稲穂を託し神々の国と同じくこの国を稲穂でにぎにぎしく実らせよと願われたといいます。

目を見張るのはかくも古の時代1300年も以前に先人は「米」をわが国の主食として捉えていたという先見性だと思います。稲作の芽生えは縄文時代の末期三千年程前にはあったようですが国土に広く伝わったのは弥生時代と言われています。弥生時代以前の米は以後の米とは少し異なっていました。種類も少し異なり今に伝わる古代米とか赤米とか言われるものがこれに近かったと思われます。対馬の漁師達はこの赤米を先祖から伝え守りこれを収穫し、守り神として祀る習慣が今でも残っています。日本では太古から命をつかさどる神様と命を繋ぐ「米」が同じく神として祀られたのでしょう。

弥生時代になると大陸から来た弥生人の北上と共に縄文人との混血が起こり稲作の技術もこれと同時に北上して行ったものと思われます。弥生時代の稲作の大きな特徴は大規模な水耕栽培です。水耕栽培を行うには平坦な耕土と水利が必要です。

灌漑と造成には共同作業を通して現代社会の基本的仕組みである共同作業と役割分担が培われてきました。人間の社会では父親は当たり前に子育てを分担しますが、ほとんどの猿は子育てを家族の役割として分担しません。動物は群れを作っても家族は作らないのです。

稲作は高度な社会性を必要とする為に人を単なる群れから家族の集団としての社会へと育てていったと思われます。私達の社会に助け合いの社会構造と精神文化、何よりも命を繋ぐ食べ物の命を頂いて自らの命に繋いでいく「頂きます」の精神は稲作によって育まれてきたと思います。

私達は美味しいものを食べると嬉しく感じる心を持っています。そして不思議なことに美味しいものを人と共有したときにはもっと嬉しく感じる心の作用を持っています。他人の喜びを感じて自分の喜びが増幅するという、個人主義の立場では何の徳も無いような心の作用が私達の心の中に備わっているのです。

このように私達日本人の精神や社会構造に大きな影響を及ぼし続けてきた「米」はほんの少し前の時代まで「食物」である以上に「通貨」としての役割を担ってきました。商人は米手形で投機的な経済活動を発達させましたしローマ帝国でも小麦が労働の代価として使われていました。農民は税を米で支払う制度が古くからあり、太閤検地などを経てその制度は確固たる物に進化していきます。

農民からすれば米は食料というより通貨として納税の糧としての意味合いが強く裏作で作る作物こそが普段の食べ物であったかもしれません。しかしそれは「米」が日本人の主食ではなかったと言うことではなく、米こそが価値の中心であったことを示していると思います。

去る年に伊勢神宮は二十年に一度の式年遷宮を迎えました。何故二十年に一度なのかを神宮にお尋ねしたことがあります。一つには宮大工、装飾品、宝剣などの伝統の技術を伝承するために二十年に一度のすべての作り直しが必要であったと言います。そしてもう一つが経済的な事情です。式年遷宮には莫大な費用が必要です。実際世の中が困窮した時代には遷宮が行われなかった時代もあり、名だたる武将がこれを寄進にて助力したこともしばしばでした。
この時寄進の多くは米によってなされています。神宮は米による寄進を備蓄しその二十年間の蓄財で遷宮という大事業をなしてきたと言います。現代では古米は忌み嫌われがちです。古古米となると人によっては捨ててしまう場合もあると聞き及びます。

 

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ところが世界には多種多様な価値観があります。たとえばイタリアの高級なお米メーカーでは新米より古米、古米より古古米の方が高値で取引されます。もちろん十分に品質管理をされたお米なのは言うまでもありません。なぜ古いお米が価値を持つのかそれはお米への接し方や調理の仕方の違いが原因しています。

イタリアではお米は多くの場合リゾットなどに代表されるように味付けをして調理されます。この為含水量の多い新しいお米は味の含みが良くありません。よく乾燥された含水量の少ない古いお米の方が味の含みが良いため料理の完成度が上がります。

我が国でも関西の「かやくご飯」(炊き込みご飯)の専門店では味の含みを良くする為にある程度古米をブレンドして調理している専門店をよく見かけます。しかし私達日本人はお米をご飯として食べる調理の方法の為か、経済的に豊かになったためのおごりの為か古いお米はその価値を失っていくようです。

さてこのように経済基盤として文化の基本として君臨してきた私たちのお米、現代では白米として食されることがほとんどです。私たちはいつごろからお米を白米として食するようになったのでしょうか。古来より米の生産量とともに我が国の人口が増加したことは言うまでもありませんが、この米の増産は社会基盤の安定なしにはなしえません。

すなわち三百年もの治安を保った江戸時代に米の生産量は大きな飛躍を遂げます。収量の少ない貴重な米は多くが玄米のまま食されたことと思います。精米すれば食べる量が減るからです。収量が増え、経済的にも余裕が生まれた江戸時代中期頃から都会では精米を施した白米がブームになります。

この白米ブームは一つの病気を引き起こします。田舎から奉公に来た若者が江戸や京都に働きに出ると体を壊します。使い物にならなくなって暇をもらい田舎に帰るとたちまちこの病は治ってしまいます。この為「都やまい」と言われた病気が今でいう脚気です。

我が国はこの脚気を国民病として苦悩した歴史があります。特にこの国民病と対峙したのが明治時代の陸軍と海軍です。当時の陸軍軍医総監である森林太郎(森鴎外)はこの研究班を率いた事でも知られています。残念ながらこの時代、脚気は脚気菌による流行病という学説が主流でした。当時はコッホやパスツールの細菌学が世界を席巻した時代であり多くの病気がばい菌による感染症という風潮の中にありました。

この為脚気も脚気菌が原因だと考えたのも当然だったのでしょう。しかし残念なことにこの思い込みの為に脚気の原因究明はかなり後の時代に譲ることになります。海軍は当時胚芽入りのパンを食べると脚気が改善する事に気づいていました。しかし玄米から胚芽を奪った白米が脚気の原因だとまでは考えが及ばなかったようです。そのくらい白米はご馳走の代表格であり富の象徴だったともいえます。白米にしたことが国民病の原因だとはだれも思わなかったし誰も思いたくはなかったのでしょう。

さて胚芽を奪った白米が脚気の原因であることがはっきりしてからも我が国では白米での消費が主流であり続けました。その大きな原因は精米技術の未熟さです。三分つき米や五分つき米にすれば脚気がなくなることは広く世に知れ渡るようになりました。しかし精米技術が未熟な当時は分つき米の表面は凸凹で酸化が早くしばらく置くとぬか臭いご飯になってしまします。かといって玄米のままの炊飯は時間がかかり食感も固くその時代の嗜好に合わなかったようです。

戦後国を挙げて米の流通を管理するようになった時も玄米で流通させるか、分つき米で流通させるか、あるいは白米で流通させるかは大きな議論になりました。結果として品質管理の問題(精米技術の問題によるぬか臭さ)の観点から白米で流通することになったようです。重要なことはこの時、流通米を白米に決定した役員の中の誰一人白米が一番体に良いとは思っていなかったことです。

この国を古くから支えてきたお米の文化、昨今の消費量は年々減少していると言います。最近では糖質制限が流行し、ますますお米離れが進んでいるようにも見えます。はたしてお米はそんなに悪者なのでしょうか。1945年から始まった国民栄養調査によると終戦直後の炭水化物摂取の割合は総カロリーの八割を占めています。これに対して現代では炭水化物の占める割合は六割を切っています。

なのに肥満や糖尿病は爆発的に増えています。確かに炭水化物の内容は時代とともに血糖を上げやすいものに変わって来たと思います。しかし動物性脂肪の増加や野菜の繊維の減少、さらに身体活動量(運動と日常生活の運動量)の減少が現代の病気の本質と思えてなりません。思えば高血圧は「塩」の摂りすぎ。糖尿病も高脂血症も元をただせば食べ過ぎが引き起こす病気です。

もう一度私たちの食を見返すことも年の始まりに喜ばしい事ではないかと思います。私たちの誇るべき歴史と文化、子供たちに繋ぐ大きな宝物としてお米の文化を大事に引き継いでいきたいと思います。